セックスしたい

STEPSでは、性についても学びます。

神様にある美しい性やセックスを学び、また、自身の性的不品行や神様が与えてくださったセックスに対する歪んだ考えを振り返り、そして、福音によって心を変えられていきます。

守秘義務が守られているグループ内で、また、メンタリングで、私たちの性やセックスが、どれほど壊れてしまっているか、傷ついているかを分かち合い、神様からの導きを求めています。


セックスしたい!

セックスに興味があります!

本当にいいセックスがしたいです!


STEPSのスモールグループやメンタリングでは、性のトピックの時は毎回のようにそのような声が飛び交います。

神様は私たちに、1人の異性と、神様の前で契約を交わした後で、夫婦としてひとつとなることを語ります。

性の関係は結婚の関係の中のみで交わされる親しいものであり、結婚外の性的な関係を禁止していることは明白です。


だからこそ、

性への願望。

結婚しているけれど、セックスに失敗したり挫折してしまう心の叫び。

こんなこと思ってるorこんなことしてる私って恥ずかしい、罪深い、他の人に知られたくないと思ってしまう人も多くいるかもしれません。

あるいは、教会では分かち合いにくいと感じてしまう人もいるでしょう。

私たちはSTEPSの中でそんな思いを分かち合い、神様からの教えを分かち合い、祈り合います。

セックスは、神様が与えてくださったとても素晴らしい賜物のひとつだからこそ、私たちはセックスを大切に扱います。


「現在独身です。セックスに興味があります。

でも年齢的にも、状況的にも、私に結婚が与えられないように思います。

この気持ちは、一体どうしたらいいのでしょうか」


セックスに興味がありますよね。

「セックスに興味があります」

そう思っていいと思います。

なぜなら、神様が私たちに堕落の前に与えてくださった、ステキな賜物・プレゼントだからです。

そのプレゼントを開いて、どんな感じなのか味わってみたい。

そう思うのは当然のことです。

同時に。。。

その賜物・プレゼントが私には与えられていない。

そんな状況の人も、当然いるはずです。

なぜ神様は賜物であるはずの、素晴らしいはずのセックスを、私には与えてくださらないんだろう?

疑問と、もどかしさと、悔しさと、切なさがあります。

そこには、嘆きがあります。


士師記11章には、処女のままこの世を去る若い娘が嘆き悲しむシーンがあります。

この箇所では、娘の父親であるエフタの信仰に注目されることが多いかもしれませんが、この若い処女の女性の悲しみにも注目してみましょう。

女性は、自分が処女であることを友人と一緒に泣き悲しみたいと言いました。

そして、山に行き、2か月間、自分が処女であることを泣き悲しんだのです。

「結婚が与えられない」「セックスが与えられない」

それを私たちは、泣き嘆いてもいいのです。



泣き嘆いたら、

私たちは立ち上がり、涙の山から下りる必要があります。


山を下りながら、私たちは次のことを考えるでしょう。

神様は、セックスを知らない人に対して、どのような目で見ておられるのでしょうか。

いたずらばかりしている子どもを懲らしめるために、セックスを与えないのでしょうか。

あなたを愛していないから、セックスを与えないのでしょうか。


STEPSのスモールグループでこの疑問にぶつかり、私たちはイザヤ書56章を開きました。

ここには、宦官に対する神様からのことばがあります。

当時、性器を切り落とした人、または去勢された人が、王に仕えていました。

つまり、性交渉が赦されておらず、子孫を残すこともできない人たちです。

それだけでなく、律法によると、去勢された人は、主の会衆に加わることができないとされていました(申命記23:1)。


宦官の方々は、孤独を抱えていたのではないでしょうか。。。

現代には、宦官と同じような気持ちの方もいるはずです。

神様は、そんな宦官に対してこうおっしゃいます。


宦官も言ってはならない。

『ああ、私は枯れ木だ』と。


なぜなら、主がこう言われるからだ。

『わたしの安息日を守り、

わたしの喜ぶことを選び、

わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、

わたしの家、わたしの城壁の内で、

息子、娘にもまさる記念の名を与え、

耐えることのない永遠の名を与える』

イザヤ56章3b-5



主の安息を守り、主の喜ぶことを選び、主の契約を堅く守るなら、宦官であるあなたには、息子、娘にまさる記念の名、そして耐えることのない永遠の名を与える。

神様はそうおっしゃっています。

キリストを信じる人は、主にあって完全に主の安息を守り、主の喜ぶことを選び、主の契約を全うしたものとみなされます。

キリストにあって、宦官である人、性交渉が与えられない人には、息子、娘にまさる、耐えることのない永遠の名を与えるとおっしゃっています。

つまり、息子、娘以上に、宦官であるあなたを祝福すると、はっきりとおっしゃっているのです。


新約聖書では、パウロもはっきりと述べています。

「結婚していない男とやめもめの女に言います。私のよう(独身)にしていられるなら、それが良いのです」1コリント7:8

「ですから、婚約者と結婚する人は良いことをしており、結婚していない人はもっとよいことをしているのです」1コリント7:38


性交渉がない宦官、独身でいる人を、聖書は明確に

「まさる」「良い」

と示しています。



・・・しかし・・・

どんなに「まさる」「良い」と言われていても、私はセックスも結婚も欲しい。。。


そういう思いが強くなり、なかなか頭から離れられないことや強い誘惑に負けそうになること、ありますよね。


STEPSのスモールグループで次に開いたのは、エゼキエル16章です。

長い箇所ではありますが、ここでは、ひどい姦淫の罪を犯す女の姿が、目をそむけたくなるほど生々しく描かれています。

もっとセックスを、もっとセックスを。

そのようにして求めた女が、姦淫に姦淫を重ねます。

もっと満足が欲しい。

もっと私が喜ぶことをしたい。

もっとセックスで私を満たしたい。

そうして、町から街へと、セックスを求めてさまよい歩く。

・・・まるで、私たちのようではありませんか。


しかし、私たちは、セックスでは満たされません。

神様は、私たちをセックスや結婚では満たされないように創造されました。

『神様との関係によってのみ、私たちは満たされる。』

そのように創造されたのです。


「わたしがそばを通りかかってあなたを見ると、

ちょうど、あなたは恋をする年ごろになっていた。

わたしは衣の裾をあなたの上に広げ、

あなたの裸をおおった。

わたしはあなたに誓って、

あなたとちぎりを結んだ

――神である主のことば――。

そして、あなたはわたしのものになった」


「衣の裾をあなたの上に広げる」とは、求婚を意味します。

あなたへの情熱的な、神様からのプロポーズです。

「契りを結んだ」とは、神様との熱い愛の結婚です。

神様が、あなたと結婚という密で深い関係を持ってくださるから、私たちはそこから、セックスや結婚以上の深い満足を得ることができます。


今、心を神様に開いてみてください。

聖霊様に心と思いをゆだね、「あなたが今私を深く知ってください。私と深く交わってください」そう祈り求めてみてください。

私たちの救い主であり癒し主であり創造主である神様は、すべての知恵と力を持ってあなたを愛し、満たしてくださいます。

STEPS

福音によって心が変えられる 聖書カウンセリングのプログラム